【参加型漫才】Vtuberの初期の爆発的な面白さを考察してみた
こんにちは!
今回は、いま流行のVtuberについての記事です。
Vtuberはじわじわ浸透したというよりかは、何回かの爆発を経て拡大していったような印象です。
また、今流行っている理由と、数年前流行っていた理由も違うような気がします。
そこで、Vtuber登場初期に特徴的だったVtuberの面白さを考察していきます。
結論を端的に言うと、タイトルにもあるとおり「視聴者参加型の漫才(=Vtuberのボケと、視聴者のツッコミ)」が成立したから面白くなったのではないか、ということです。
考察というよりかは、すでに皆が気付いていることを改めて文章化している感じです。
Vtuberを知らない人に対して、それがどんな物なのか、どんな面白さがあったのかを説明するときにでも使って頂けたらと思います。
Vtuberを知らない人向けにも、できる限り分かりやすいように説明していこうと思います。
※注意
・Vtuberは基本切り抜きで追っているにわかです。
・今回の説明は、全てのVtuberに当てはまるわけではありません。
・お笑いについても素人です。
・考察記事ですが、読みやすさの都合、断定形で書いてます。
・「ガワ」「設定」「中の人」とかの、メタメタで乱暴な単語を使っていきます。他に的確な単語が思い浮かびませんでした。興醒めしてしまう方は注意してください。
・敬称を省いて記載させていただきます。
目次
そもそも、漫才の形について
まず、漫才がどういう形で成り立っていくのかを考えます。
と言っても、「なぜ漫才は面白いのか」というところまでは踏み込みませんし、あくまで漫才の一要素のみについてのものです。
また、漫才の専門家でもないので、あくまで素人目で見た形式の説明です。
漫才には、「ボケ」と「ツッコミ」と「参照点」があると思います。
ボケがボケとして成立するには、「何かがおかしい」ということが分からなければいけません。
そのためには、ボケと「本来あるべき姿」を比べ、その差からボケを判別する必要があります。
今回は、その本来あるべき姿を、勝手に「参照点」と読んでしまいます。
例えば、紫色のリンゴがあるとき、それがおかしいと分かるのは、赤いリンゴとの色の違いがあるからです。
この場合、ボケは紫色のリンゴで、参照点は赤いリンゴです。
そして、参照点がなければ、ツッコミを入れることができません。
ツッコミは、基本的に参照点との差についての言及になります。
リンゴの例で言えば、「紫色」に対してツッコミが入ります。
さらに、観客も、参照点が分かっている必要があります。
さもないと、参照点とボケの差が分からず、ツッコミも理解できないからです。
オタク同士のジョークが、オタクでない人に通じないのと同じです。
そもそも、ボケの何がおかしいのかを理解できないと、ツッコミも理解できません。
オタク同士がニヤケあっているようにしか見えず、ジョークであることも分かりません。
参照点は「常識」であることが多い
もし、オタク仲間ではなく、より多くの人に漫才を理解してもらうためにはどうしたら良いでしょうか?
それは、参照点を誰でも分かる「常識/社会一般の共通認識」にしてしまうことです。
この場合、ボケは常識外れなことを言ったりします。
このとき、「本人は自分が常識的だと思っているが、実際はそうではない」というところに参照点との差が生まれで、ツッコミはそこを指摘します。
具体的な例として、ブラックマヨネーズのボケと参照点の違いを図にするとこんな感じになります。
また、これはコントであり漫才と呼べるか分かりませんが、サンドウィッチマンの葬儀屋のコントだとこんな感じです。
ちなみに、ボケが「自分の言うことが非常識で当然」というスタンス場合は、常識を参照点にしてもツッコミを入れられません。
本人が非常識を自覚しているのに、非常識を指摘しても、ただ当たり前のことを言っているだけだからです。
参照点の設定を間違えると、的違いなツッコミになってしまいます。
少し極端な例で説明してみると、
例えば、「客室乗務員なのに飛行機が苦手」というボケに対して、「でもお前男じゃんww」みたいなよく分からないツッコミを入れたとしたら、それはツッコミ側の考えている参照点がおかしいことになります。
本来は「客室乗務員なら飛行機は平気」という常識が参照点になるはずです。
この場合、なぜだかツッコミは「客室乗務員は女性ばかり」という参照点を設定して、性別という差にツッコミを入れてしまったようです。
日常生活でも、ツッコミが上手い人は、まず参照点をどこに設定するかが上手い気がします。
「的確なツッコミ」というわけです。
常識を参照点にすると辛辣になりやすい
これは、あくまで私の感想なので批判する意図があるわけではありませんが、常識とボケを比べてしまうと、どうしてもツッコミは辛辣になりがちな気がします。
というのも、「普通でない」ことに対して、日常生活で向けられる視線はあまり好意的ではありません。
きっと、そういう社会的な背景から、常識を参照点にするとツッコミが辛辣な罵倒に近くなってしまうのではないでしょうか?
また、ボケの「非常識」を、実際に常識だと思っている人もいます。
その場合、漫才であるという前提が分かっていても、そのツッコミに快く思うことはできないでしょう。
参照点が、誰にでも分かる現実世界のものにしてしまうことによる弊害だと思います。
Vtuberにも「キャラ設定」という参照点がある。
以上のように、漫才の特徴を説明してきましたが、Vtuberにも参照点があります。
それは、「キャラクター設定」。乱暴な呼び方をすれば、「ガワ」です。
Vtuberも、「ボケ」と「ツッコミ」と「参照点」がの条件が揃い、漫才のような状態になることがあります。
そして、その漫才的な面白さがVtuberの特徴とマッチして、初期の爆発的な人気につながったのではないかと思います。
では、まずVtuberのボケと参照点について説明していきます。
Vtuberにおける「ボケ担当」となるのは、Vtuberを演じる本人、「中の人」です。
そして、参照点は「ガワ」です。
この時ガワは、キャラ設定という形で公開されるので、視聴者の共通認識になっています。
この中の人は、ガワに近づこうとしますが、そもそもガワのキャラ設定は一般的なアニメキャラのような「理想の存在」的設定なので、追いつくことはなかなかできません。
また、中の人がぶっ飛んでいて、どう考えてもガワの逆方向に向かっている場合もあります。
この場合も、キャラ設定に追いつく事はできません。
しかし、本人は「ガワを演じ切ろう」、「自分こそがキャラ設定の体現者だ」とロールプレイをします。
ところが、これもは無理があるので、結果的に演じきれずボロができます。
これがボケです。
この時、Vtuber本人の言動と、視聴者が皆知っている参照点(ガワのキャラ設定)との差が生まれます。
「Vtuber本人は、自分がそのキャラクターのように振る舞っているけれど、流石に無理がある」という差です。
こうして、視聴者がツッコミ担当となり、Vtuberに対してツッコミを入れることで、Vtuberコンテンツは漫才の形態をとるというわけです。
こうして、視聴者はあたかも自分が漫才に参加しているような感覚になることができます。
少し冷たい表現をすれば、視聴者が自分を、漫才ができる面白い人間であるかのように錯覚することができてしまいます。
この状態を「Vtuber漫才」と呼ぶことにます。
Vtuber漫才の例①:のじゃおじ
かつてVtuber四天王の1人に数えられた『のじゃおじ(バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさん)』は、まさにVtuber漫才の形態を取っていました。
中の人は一般的な男性なのですが、少女のような動きをしてモーションキャプチャを使い3Dの狐娘のキャラクターを動かし、「のじゃ」という語尾を徹底していたVtuberでした。
しかし、致命的なことに「技術的なリターンに見合わない」という理由から声は加工せず、男性声で少女ロールプレイを続けるという、ツッコミどころしかないVtuberです。
視聴者は、このあからさまなボケに対して、とにかくツッコんでいくという感じで楽しんでいたと思います。
中の人は、現在引退して、youtuberチャンネルを運営しています(https://www.youtube.com/channel/UC5UbdI4CJ-BwFudca9nzNlg)
Vtuber特有の条件が、Vtuber漫才を面白くした
ここまで読んでいただいて、「でも、参照点を持って漫才の形態をとるのはVtuberだけではないな」と感じると思いますが、それは全くその通りです。
しかし、Vtuber特有のいくつかの要素が、このVtuber漫才を特殊なコンテンツに変化させました。
ここでは、Vtuber漫才の特徴をいくつか紹介します。
特徴①:「ツッコミが辛辣にならない」
Vtuberのガワというのは、大抵の場合2次元的なキャラクターの延長として設定が用意されているので、現実ではありえないくらい容姿が良かったりスペックが高かったりします。
ですので、中の人が参照点(キャラ設定)に追いつけなくても仕方がありません。
仕方ないのだけれど、本人がボロを出すので、視聴者はツッコまずにはいられないというわけです。
この時点で、ツッコミの熱が少し和らいでいる状態です。
さらに、参照点がキャラ設定という「作られたもの」なので、それに違反していても現実的な問題にはなりません。
例えば、設定が「清楚」であって、中の人が清楚とは言い難い言動をした場合のツッコミは「全然清楚じゃないじゃないか」となります。しかしそれは、「設定と全く違うじゃないか」というツッコミの言い換えです。
「常識を参照点にしたツッコミは辛辣になりやすい」と述べましたが、常識に追いつけない時には「仕方ない」では済まない場合が多いのではないでしょうか。
それゆえの辛辣さな気がします。
「社会人としておかしい」「人としておかしい」ではなく、「設定と違う」という指摘ならば、辛辣な言葉や罵倒にはなりえません。
Vtuber漫才の例②:月ノ美兎
今やVtuberの中で一番大御所とも言える月ノ美兎も、最初期からVtuber漫才の形式でした。
委員長という設定であり、アニメでいうところの「清楚キャラ」なのですが、ワードチョイスや趣味などから「清楚」とは思えない過激な発言をします。
毎回の生放送で「きりーつ、気をつけ」という挨拶をすることから、本人には清楚キャラを維持していこうという意思はあるようですが、残念ながら、中の人の個性がそれにフルブレーキをかけています。
視聴者が「清楚」という単語をコメントを打つときは、必ず「清楚であって欲しい」という文脈の中で使われます。
本人がキャラ設定を意識しながらも、それが達成されず、視聴者がツッコむという、Vtuber漫才のお手本のような例です。
チャンネル↓
(https://www.youtube.com/channel/UCD-miitqNY3nyukJ4Fnf4_A)
特徴②:「ツッコミを思いつくのが容易である」
Vtuberの参照点となる「キャラ設定」は、誰にとっても明らかです。
キャラ発表時に公式が公開しますし、何よりVtuber本人が説明します(場合によっては聞き飽きるくらいに)。
そのため、簡単に参照点と中の人との差に気づけます。
結果、視聴者は簡単にツッコミが思いつき、簡単にコメントに参加することができます。
さらに、視聴者全体が似たようなツッコミを思いつくので、コメント欄内の一体感が生まれやすいという特徴を生みます。
Vtuber漫才の例③:宝鐘マリン
ホロライブ所属の宝鐘マリンは、比較的最近登場したVtuberですが、まさに初期のVtuberのような面白さを今でも発揮しています。
船長(宝鐘マリン)がボケて、視聴者がノリノリでツッコむという形式は、生放送の面白さのかなりの部分を占めています。
チャンネル↓
(https://www.youtube.com/channel/UCCzUftO8KOVkV4wQG1vkUvg)
特徴③:「秀逸なツッコミが生まれやすい」
特徴②にあるように、ツッコミ自体を思いつくのは簡単です。
かといって、面白いツッコミが生まれないわけではありません。
「参照点と中の人の差」が視聴者共通のお題となり、「いかに面白いツッコミをするか」という大喜利大会の様相になります。
数千、数万の視聴者がいれば、誰かが秀逸なツッコミを生みます。
さらに、1人でも秀逸なツッコミをすれば、Vtuber漫才は面白いものになります。
誰でもツッコめるからといって、チープな漫才になるのではなく、実際に面白かったりするのがVtuber漫才の特徴です。
「Vtuber漫才」となる条件
Vtuber漫才を面白いと感じるかはともかく、まさに漫才的な形態をとることが分かって頂けたでしょうか?
最後に、Vtuber漫才が発生する条件を紹介します。
これを全て満たしていないと、漫才の形式にはなりません。
1.ガワと中の人との間に、明らかな差があること。
→中の人が、キャラ設定のハイスペックに追いついてしまっている場合は、ツッコめない。
2.中の人がガワと自分を同一視している(かのようにロールプレイしている)こと。
→中の人が、ガワのキャラ設定をそもそも放棄している場合は、参照点自体が存在しないのと同じ。
3.視聴者がコメントを打つことができる。
以上の3つです。
Vtuberを見ていると、これらの条件を満たしていない場合も多くあることに気付くと思います。
特に、最近登場するVtuberはこの条件を満たしていない傾向にある気がします。
もちろん、だからといってどうというわけではありませんし、それはそれで新しいコンテンツの形として成立しています。
ただ、私は個人的に、Vtuber漫才に現れるようなVtuber特有の面白さがあまり見られなくなってしまうことが残念に思えます。
次回は、Vtuberがそれぞれがどのようなコンテンツを提供しているのかという分類分けと、Vtuberが最終的に行き着くであろうキャラクターのあり方を考察します。
それでは!
普段は、ビデオゲームのレビューや考察記事を書いています。
今までの投稿はこちら↓